取材日:2023年8月2日
2023年度新加入選手インタビュー Part.1 牛原 寛章選手
福岡県久留米市出身。明治大学を経て、NTTドコモレッドハリケーンズ(現・レッドハリケーンズ大阪)に入団。3年目からレギュラーを獲得し活躍していましたが、NTTグループの企業再編によりチームがディビジョン3へと降格することとなり、昨シーズン、ディビジョン2の豊田自動織機シャトルズ愛知へ。そして、今シーズン、神戸スティーラーズへ入団。新しい場所で頑張ることが好きだという牛原選手のモットーは「一瞬懸命」。一瞬、一瞬の積み重ねが、未来の自分を作っていくと、目の前のことにひたむきに取り組む牛原選手に新天地に賭ける想いを聞きました。
「武器であるセットプレーでチームに貢献し、 神戸スティーラーズでラグビー人生初の日本一を」
HO
牛原 寛章
USHIHARA HIROAKI
PROFILE
- 1993年1月17日生まれ(30歳)、福岡県久留米市出身
- りんどうヤングラガーズ→佐賀工業高校→明治大学→NTTドコモレッドハリケーンズ(現・NTTドコモレッドハリケーンズ大阪)→豊田自動織機シャトルズ愛知
- ポジション/HO
- 身長・体重/173cm・105kg
- 代表歴/U20日本代表
セットプレーでチームに貢献したい!
明治大学では、OBの勝木 来幸さんと同期なんですね。
「そうなんです。大学時代よく後ろ姿が似ていると言われていました。神戸スティーラーズに入団が決まってから来幸に連絡をしたんですが、『頑張れよ』と言ってもらいましたね」
改めて神戸スティーラーズへ入団することにしたのはどのような想いからなのでしょうか。
「高校、大学と優勝経験がなく、社会人になってからも頂点に立ったことがありません。ずっと『日本一になりたい』という想いがありました。神戸スティーラーズは、昨シーズン、結果がついてこなかったですが、優勝が狙えるチームです。ラグビー人生初の優勝をするために神戸に来ました」
神戸にはいつ引越しを。またチームに知り合いはいるのでしょうか。
「7月上旬、神戸に引っ越してきました。知り合いは、(前田)剛が大学の3学年後輩です。それと、北出(卓也)は同い年で、U20日本代表で一緒にプレーしたことがあり、チームに合流して以来よく食事に行っています」
北出選手は同じポジションで、ライバルですよね。
「ライバルですけど、もうお互い30歳なので、そこまで意識はしないですね」
そういうものなんですね。バチバチと火花を散らしているものなのかと思っていました。
「20歳前半だったら、バチバチだったかもしれないですね(笑)。僕はセットプレーが武器なので、そこでチームに貢献したいと思います」
父に勧められて柔道からラグビーへ
セットプレーが持ち味ということですが、どこでスキルを磨いてきたのかなど、これまでの牛原選手の競技歴を伺いたいのですが。ラグビーは何歳からはじめたのですか。
「小学5年からはじめました。僕は3兄弟の三男で、兄たちが柔道をしていて、僕も最初は柔道をしていました。けど、それほどハマらなくて、それで父からラグビーを勧められました。父はラグビーをしていたわけではないのですが、近くにあるラグビースクールに連れていってくれたんです。スクールには、東京サントリーサンゴリアスの流(大)がいて、中学3年まで一緒にプレーしていました」
ラグビーはハマったと。
「ハマりましたね。1番から8番までポジションに関係なくフォワードでプレーしていたんですが、めちゃくちゃ面白かったです」
佐賀工業高校に進んだのは。
「中学3年の時に、父が不慮の事故で亡くなりました。兄は大学に進学していたので、僕が地元で就職して母親を支えようと思ったんですが、佐賀工の先生が、親父の代わりになるので入部しなさいと言ってくれて。母も『お父さんが見守ってくれているから、高校に進みなさい』と背中を押してくれました。めちゃくちゃ悩みましたが、母と先生の後押しで佐賀工に進むことにしたんです」
そうだったんですね。高校ではいつから試合に出るようになったのでしょうか。
「2年からです。高校は練習がめちゃくちゃ厳しかったのですが、母が父の分まで応援してくれていたので頑張らないといけないと思い、練習に取り組んでいました。母の応援がなければ乗り越えられなかったと思います。それもあって、2年からは試合に出られるようになりました」
高校時代に得たものとは。
「高校では、ラグビーの基本を叩き込まれました。もともと佐賀工は、ラグビー部の半分くらいが初心者で、タックルやボールリリースなど、1年の時に基礎を練習します。あと、フォワードはスクラムをとにかく組む。特に、フロントローは1対1で全員に勝つまで組んで。そういう練習のお陰でスクラムには自信がつきました」
「一瞬懸命」兄の言葉に救われた
大学は明治大学へ進みました。
「高校では練習後、チームのみんなとトップリーグや大学の試合を見ることがよくありました。大学進学はまったく考えていなかったのですが、2年の頃から明治大のパワープレーに憧れるようになって。それで明治に進むことにしました。大学では、自分の得意であるセットプレーだけでなく、グラウンド全体を使った戦い方や知識などを学びましたし、スキルも身に付いて、プレーの幅が広がりました」
高校、大学と順調に成長してきたんですね。
「ただ、大学の時は、怪我で落ち込んだ時期もあって。1年からちょくちょくリザーブで試合に出させてもらえるようになったんですが、2年の時に肩を脱臼して手術をしたんです。初めての大怪我で、下を向いていた時に、次男が『一瞬懸命、頑張れ』という言葉をかけてくれたんです。兄はずっと柔道を続けていて、大学4年の時、大怪我をして、学生時代最後大会に出ることができなかった。それで、兄がお前はまだ2年なんだし、目の前のことに集中して、一瞬一瞬を頑張るように言ってくれて。その言葉に救われて、地道なリハビリを頑張ることができ、3年の時にレギュラーを獲得することができました。それから『一瞬懸命』は、僕のモットーになっています」
そういうことがあったんですね。兄弟は仲が良いんですか。
「長男は6歳、次男とは3歳離れていて、長男には小さい頃から可愛がってもらっていたんですけど、次男とは子供の頃は喧嘩ばかりしていました。しかも、僕と違って次男は体がめちゃくちゃ大きくて、取っ組み合いになるとやられてしまう。仲良くなったのは、大学生になった頃ですね」
NTTドコモでセットプレーをさらにレベルアップ
大学卒業後はNTTドコモレッドハリケーンズ(現・レッドハリケーンズ大阪)に進みました。九州出身の選手は、地元のチームに入団することが多いように思うのですが。
「僕は逆に地元に帰りたくなかったんです。知らない場所に行った方が新しいことを吸収でき、自分をさらに磨けると思っていて、それもありNTTドコモに入団しました」
1年目から試合に出ていたんですよね。
「大学時代に左プロップの経験もあったので、1番で時々試合に出させてもらいました。とはいえ、1番は本当に少しかじったくらいで。でも、今でもやろうと思えばプレーできるので、1番と2番ができることは僕の武器の1つでもあります」
持ち味であるセットプレーはトップリーグ(当時)でも通用しましたか。
「大学レベルとはまったく違いましたね。ラインアウトのスローイングは得意だったのですが、各チームに2メートルを超えるような代表クラスの外国人選手がいますし、入団1年目にチームに南アフリカ代表ロックのエベン・エツベスが加入して。僕がBチームで、Aチームにエツベスがいて、ラインアウトになると簡単に取られてしまう…。心が折れかけました」
どうやって克服したのでしょう。
「外国人選手と日本人選手のロックとでは、ジャンパーの到達スピードがまったく違います。それで、いろいろと考えて、投げ方も工夫するようにしました。あとは、スローイングの練習を積んで、スキルアップし、また自信を持てるようになりました。スクラムも学生時代とは組み方や考え方が違って、頭を悩ませましたが、8人でまとまって組むということを学び、少しずつスキルを習得していき、3年目からフッカーでレギュラーポジションを獲得することができました」
故・湯原 祐希さんのようなフッカーに
目指しているフッカー像はあるのでしょうか。
「故・湯原(祐希)さん(当時・東芝ブレイブルーパス)です。ラインアウトも正確で、スクラムも強くて、学生時代からずっと憧れの存在でした。佐賀工出身ということで、立川剛士さん(当時・東芝ブレイブルーパス)と仲が良かったので、立川さんを通じて、指導をお願いしようと思っていたのですが、結局実現できずに終わりました。湯原さんは永遠の目標ですね」
山下 裕史選手も、日本代表で一緒に組んだ中で湯原さんが一番スクラムが強かったと話していました。山下選手とスクラムを組むのも楽しみではないですか。
「めちゃくちゃ楽しみです。ヤンブーさん(山下 裕史)、具(智元)くん、(山本)幸輝さんと、フロントローには代表経験者が多いので早くスクラムを組みたいですね」
今シーズンの個人としての目標は。
「『一瞬懸命』をモットーに、セットプレーも、ハンドリングスキルも、毎日少しずつ積み上げていき、神戸スティーラーズのラグビーにフィットしていきたいと思います。1年目から最高のパフォーマンスをして、試合出場を勝ち取って、王座奪回に貢献できるよう頑張ります!」
では最後にSteel Matesの皆様へメッセージをお願いします。
「ニックネームは『うっしー』です。ひたむきに練習に取り組み、チーム一丸となって優勝を掴みに行きます。試合会場に足をお運びいただき、『うっしー』コールを送ってください!」
NTTドコモレッドハリケーンズ(現・レッドハリケーンズ大阪)では入団6年目に、ラグビーを極めたいと思い、チームで初めて社員からプロ選手になったそうです。「プロになりたい若手も多く、そういう選手のためにも道を切り拓こうと思いました」と語る牛原選手。熱くて、仲間思いで、コロナ禍で緊急事態宣言が発出された時には、勝木 幸来さんの実家のカレー専門店がピンチと聞き、オンラインショッピングで購入したりしていたとか。セットプレーに絶対の自信を持つ、「うっしー」こと牛原選手の今後の活躍にどうぞご期待ください!